私には私だけの哲学がいろいろある。
ヤギ旅は私の本質で、
『できない事など何もない。できない理由って言うのは言い訳でしかない。可能性が低いだけであきらめているなら、それはやらないという選択をしただけ。』
っていう部分を体現しただけ。
正直、この考え方は子供のころからずっと持ってた。それでも、思春期には凄くネガティブで、他責思考になって、行動しないのも「できない理由」ばかりを並べてた。
今も完全に抜け出したわけじゃない。
でも変わらなきゃいけなかった。
『お金や肩書だけがあっても、腹は満たされない。』
『他人を恨むな・羨むな。自分を磨け・楽しめ。』
『人のせいじゃない。自分の選択だ』
『見えないものを見た気になるな。見えたものが全て事実だと思うな』
『真実を追求するより、自分における正しさを常にアップデートせよ。』
『目の前のもの・人に感謝する。』
『小さな幸せを探せ。それを伝えれろ。幸せはおすそ分けできる。いつかそれは返ってくる』
『私の強さは、強き者へ向け、弱い者のために戦う。』
みたいな感じで、私の十か条みたいなのは、いっぱいある。これは物心ついたときから本質は変わらない。ま、ある意味永遠の中二病かな(笑)
そうは言っても、自分の中に落とし込むために、どれだけの本を読んだかもわからない。
どれだけの人に聞いて回ったかもわからない。
毎日毎日時間が空いては紀伊国屋に行って片っ端から哲学・心理学を読み漁り、土日も朝から晩まで紀伊国屋にいた。サボれるときは学校も塾も行かず、遊ぶこともなく、本を読んでた。
お金が手に入れば本を買い、地元の喫茶店の片隅でアイスミルクティーを飲みながら一人ひたすら本を読んでた。
当時はやっていたpcのチャット機能で、自分より30も40も上の人たちと哲学や心理学、獣医学やウイルス学から考える生物の思考や進化について毎晩話し合ってた(笑)10窓してたりして、聖徳太子状態でフル回転してたけど最高に充実してたし、それが最高に楽しかった。
行動エネルギーの源は、「死にもしない事に躍起になってる大人が謎すぎた」ってだけ。
動物と同じ人間なんだから、生きることに一生懸命になればいいだけじゃないの?と。
むしろ人間で、言葉が喋れるからこそもっと楽に生きられるんじゃないの?と。
それを読み解くには人間の心理や進化、構造を知る必要があると思った。
単純に、現実の苦しさから逃げて、グレる先を探してただけかもしれないけどね。
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今も乗り越えられないと言うか、自分で納得できていない事がある。
それは、『お金』が嫌いだって事。
物心ついたころから金にものを言わせる社会が嫌いで、嫌で嫌でたまらなかった。
ある意味お金にまみれた家で、食べるものにも困らず、学校も行けて、贅沢だったけど、お金によって生まれた負の部分がよく見えた。上辺だけの大人達を見ていて異常なほどに心は貧しかった。
上辺で生きてるなんて皆からしたら当たり前なんだけど、私はそれが自分を守るためだとしても、人を傷つけてまで絶対的に肯定される行為だとは思わない。更に、『お金』を優先していて、自分で現状を変えないという選択をしているのに、他責にするのは違うと思うんよ。それを、ぐずぐず言ってるのがイやなんだよね。まぁ自分がそうなることは絶対に嫌…っていうか納得できないってのが率直な想いかなぁ。
正直言って、過去のネガティブの私が今話しかけてきて、ぐずぐずに同調してくれって言われても無理。今は子供の頃のように、常に上辺じゃなくて本気だから、同じエネルギーベクトルで付き合ってくれる仲間との時間が一番楽しい。
子供の頃の私に対して、いつも全力で、いつも本気で付き合ってくれる仲間がいたんだよね。
それは、「自然」。
箱入りお嬢だったけど、お金を使った遊びは本当につまらなかっし、ディズニーランドの楽しさがわからなかった。一番楽しかったのは、動物とのふれあいや、塀登り・木登りして木の実を食べること。当時の東京はまだ大きな木が結構残ってたんだよね。
琵琶の実、桑の実。ツツジ吸ったり、蛇イチゴ食べてみたり…カラスと熟れ時を巡って取り合いしたり、猫と塀歩きの優先順位を競ったり、毛虫の襲撃で昆虫には勝てないと悟ったり、いつも『自然のカタチ』は私に本気で向き合ってくれてた。
塀の上はギリ私有地じゃない!塀からはみ出た木の実は個人のものじゃない!って自分で自分に言い訳してた。今はダメだってわかってます~
赤土探して縄文土器造って、授業でもらった黒曜石で葉っぱ切って煮てみたり。
ドングリすり潰して小麦粉と混ぜて焼いてみたり。
木を聴診器で聞いてみたり。
マンションの屋上に潜り込んで、あおむけでひたすら雲を見続けたり。
空気や風は二度と同じものとして私の前には表れないと空気に挨拶してみたり。
まぁかなり危ない奴だったね(笑)
今も猫に挨拶して、風とうたって、水と共鳴しようとしてる危ない奴です(笑)
『自然』は最高の友達で、一番楽しい時間だった。
当時は人間のエゴってものを強く感じた時期でもあった。
私が人んちのハスキーにちょっかいを出して耳をかみちぎられそうになったことがあるんだよね。
「犬は悪くない!」「犬を責めないで!」って血をダラダラさせつつ、泣きながら訴えた(笑)大人は犬を怒ったけれど、ちょっかいだしたのは私だって言ってるんだから、犬にキレること自体が「人間様」な考えだと思ったよね。
あと、動物は人間の言うことを「理解できない・考えてない・聞いてない」ってのもエゴだなぁって。もし言葉がわからなかったとしても、私は人や動物の感情や本音を読み取れる。100%あってるわけじゃないけれど、生き物同士であれば伝わる想いがあるってのをほとんどの人間は忘れてる。そしてその人たちは、自分の価値観が「真実で正義で絶対」であると本音では思ってる
…って、自分がネガティブ過ぎて、取り巻く人々もネガティブが強くなって、ネガティブにあふれた環境だったから、偏った側面にフォーカスばかりしてたんだろうなぁと今では思う。
まぁそんなこんなで社会不適応なネガティブ人間がどんどん完成していった( ´∀` )
因みに思春期には、夜な夜な2Fの窓から逃げ出して、友達と徹夜で麻雀するのが日課。軒に足跡を残さないように、音を出さないように、1歩進むのに10秒くらいかけてた(笑)ミシッ…っていう木の音一つ一つにビビりながら、2回から裸足でジャンプして逃走( ´∀` )
たまにバイクでお台場行ったり、湘南行ったり、夜な夜な冬の海でも海水浴してた(笑)PC取り上げられて、外に出るしかなかったんよねぇ~でもサイコーに楽しかった👍
バレたら一大事だから、人の形のもっこり布団を作って、ウィッグチラ見せしたりしてなかなか天才的なダミーを作って出かけてた。もちろん帰りは排水パイプをよじ登って、泥棒のように窓から帰宅。
すんごい楽しかった。楽しんでたのに超ネガティブっこっていう、当時はミステリアスな女って感じで売り出してた(笑)もうこの時期にはグレすぎて、『お嬢ヤンキー』でしかない(笑)
「お嬢は良いよなぁ」って腐るほど言われたし、「恵まれてるよね」とも言われた。
ちゃうねん!!!って心の中では叫んでたなぁ。
外から見るお嬢と、中から見るお嬢は全然ちゃうねん!!!って。まぁ叫んでも、みんな自分の幸せに気づいてないし、目の前の問題が多すぎて理解する余裕がないんだろなぁって思ってた。これは、そのまま当時の自分に気づかせてあげたいなぁとは思うけれど、やっぱり隣の芝生は青く見えるもんだよね…
当たり前に家族がいて、
会話があって、
親が作ってくれたご飯を食べて、
そもそも喧嘩ができる関係性があって、
自由にマック食べられて、
プリクラ撮れて、
自由に遊びに行けて。
それって最高に幸せなことで、人との関係性とか幸せって、お金だけでは叶わないんだよね。
正直、自分の為のお金さえあれば、自由も幸せも手に入るのかなと思った時期もある。
そこで始めたキャバ嬢。でも、やってみて思ったのは、自由に使えるお金をそれなりに持っているお客さんを見ても、やっぱり幸せでも自由でもないんだなぁと。大金持ちも小金持ちも、金がベースで幸せな人は一人もいない。自分自身においても、着飾って、美しく装っても、上辺の美しさを上辺でほめ合って、本音で蔑み合う場所であるがゆえに、もう地獄だった。
じゃあやりがいを見つければいいんだ!と仕事に明け暮れた時期もある。
トリプルワークと副業をこなして、ボランティアにもいそしんで、分単位で超絶忙しい時期もあった。でも、心のフリーダムは手に入らなかった。むしろお金が増えて時間が無くなった。仕事が増えてお金が増えると出費も増えた。他人に振り回され、自分軸は消えていった。これは私にとってストレスの増幅歯車でしかない。
ボランティアひとつとっても、人の為!と言いながら、結局誰しもが自分の利益しか考えてないんだなって気づいたことで、一人メンタルが拗れた。
そして20代をピークにグレにグレて、ぐれまくった。酒飲んで、精神薬も飲んで、シラフですら暴れくるってた(笑)
んで、哲学を追う自分に、蓋をした。

更に、私のお金嫌いには強烈なトラウマが関係してる。
お金が原因で、人生の中で一番大切な人を、幼少期に、目の前で亡くしたんだよね。
『お金があること・権力を持つこと』を理由に、大切な人が死んだ。
更に、死者を前にした金・エゴ・見栄による、したたかな争いが始まった。
だから私は『お金』が嫌い。
「何よりもお金が好き!」と正直な人は好き。大好き。価値観が真逆で面白いなぁって思う。
ただ、「人が一番大切!」って言いながら人を切り捨てていく人が嫌い。
教養として帝王学も学んだけど、本質は人の中で解釈が変わり、価値観によって方向性は変わる。
ほとんどの人が、人を踏み台にすることが当たり前のような捉え方=お金だと思ってるようにしか見えなかった。
私が大切にしたいのは、お金じゃない。
私の経験を、誰かの苦悩の解決のためのヒントにしてほしい。帝王にもなりたくないし、人々の中心にいたいとも思わない。成功者になるならば、人の人生をよりよくするプロとしての成功者になりたい。
私が解決してきた種々のトラブルにおける、破天荒な一つの選択肢を一行の光として今の私と共に提示したい。時には完全な合法ではなく、法の隙間のグレーをつくこともあるかもしれない。
でも、私が大切にしているのは、
『人としてのルールとマナーを守り、人をリスペクトして、ひたすらに努力すること。』
それが私のすべてで、私がしてきたことで、私にできる事。
そして、これは人対人だけではない。
動物としてのルールやマナーを守り、他の生き物をリスペクトして、ひたすらに努力する事。弱肉強食の食物連鎖の中においても、そのリスペクトは絶対に欠かさない。ビーガンやベジタリアンとかって考え方じゃなくて、頂くからには感謝するし、絶対に残したくない。毛皮問題もあるけれど、いのちを頂くという事はその命を全て循環させることだと思ってる。捨てるという行為は、リスペクトする事ではないと思ってる。
日本ではコメにも神が宿ると言われているけれど、ご飯粒をきれいにすべて食べる人ってあまり見ないんだよね。それと同じことで、私の考えも本質的には日本人気質だけれど、現実的にみると、日本では非常に異質。だからこそ、自己主張をすることで反感を買い、総スカンをくらい、主観すらも存在を否定されるような事ばかりだった。
誰もが上辺で生きている世の中で、ネガティブ思考から脱せなくなり「もう何もしたくない!」と自分で行動を止めたとき、私を見透かした生き物が「ヤギ」だった。
彼らに見つけてもらったんだよね。
あの目は、人の本質を見透かす目。私が行動する事をサボれば彼らには見えている。そんな気がした。
何の意味も根拠もない、感覚的なもの。
彼らの目は驚くほど冷静で、「ふ~ん」っという無言の事実を第三者的目線で突きつける、自分の鏡のように見えた。冷静で、現実的で、圧すら感じるのに、ただそばにいて、ただ何も言わずに私の服や草を食べ続けている。
人間的常識でヤギを見れば「何も考えてない」んだと思う。けれど、私はそうは思わないし、例えそうだったとしても、彼らの目は私を律するだけの癒しと力を持っている。
だから、ヤギと共に暮らしたい。
残りの人生を悔いなく過ごしたい。
自分のふたを開ける事をやめないために、自分で決めたヤギと育む人生の哲学。
これが私のヤギ旅哲学。

私はどんなに自分より強い相手でも、意見は言う。
ただ、無責任にならないためにも、必死に情報を集め、質問し、学び、考える。
はっきり言って「同調意識」の欠片もないと思う。
だから「強い」とよく言われる。
私はこの強さを、自分を守るためではなく、人の為に使いたい。
理想論かもしれない。
でも、実際に「権力を盾にネガティブな言葉を発している人」に真正面から立ち向かうと、大方矛先は私に向く。それでいい。私の強さは、ちょっとやそっとのネガティブの押し付けくらいじゃ曲がらないから(笑)
人を守るためならば、時にはしたたかに。
自分が金銭的に不利益であったとしても、私の心は満たされる。そんな人生でいたいと思う。
その行動を止めないためにも、ヤギと生きていきたい。